良く回る口が紡ぐ言葉を理解するのには水晶を薄く剥がすのよりも余程苦労させられた。彼は破戒僧だった。神殿の決まりごとを守らずに人を癒すのが彼の生き方であることは、外を良く知らぬ自分にもなんとか理解できた。彼は紺色に染まる洞窟を彼の古巣に例えた。娯楽というものを知らず、自分の信じたいものを信じ、そのくせ世界の何もかもを分かったような顔をする。私は反論の代わりにもてあそんでいた水晶細工を彼の前に放った。彼はそれを見て鼻で笑った。彼は我々を揶揄するのに色彩を語った。抜けるような青い空ですら表情を自在に変えるのに、「お前ら」ときたら!仮面をつけているのでもあるまいし、少しは色を知ったらどうだ。日暮れの橙といったらそれはため息が出るほどだ、霧を纏う朝日が白の裸身を表す神秘!私は彼に放った水晶細工に目を落とし、透き通るそれに首を傾げた。変化しないことは人にとっては忌むべきことなのだろうかと。我々の生き方を知らぬ彼は、私を外へ連れて行きたがった。こんなところにいたら黴だけでなく苔が生えるぞ!と。それは魔力を溜めず時を生きる語り部たちの生き様であった。私は彼に向かって「そうあるのは一つの到達点だろう」と答え、酷く彼を笑わせた。我々が人間を認めたときに良くにた声色だった。お前は冗談がなかなか上手い!人を癒すものと自称する割には、私の背を叩く力は随分と強かった。
彼が洞窟の辺りに倒れていたときは、鮮やかな朱を纏っていた。人は血が流れすぎると死ぬ、そう伝え聞いていた私は、あたら短い生を散らすのも哀れであろう、とその重い体をねぐらに引きずって帰り、書物を捲りながら彼の傷を癒した。目覚めた彼はこともあろうに私のことを、彼を襲った獣と取り違え、若く未熟であった私を憤慨させた。とはいえ、人は我々の表情を読むのには長けていない。私が害のない生物と知るなり、彼はすぐに破顔した。それもまた、私の気分を損ねた。
彼は世界を癒すのだと語った。誰一人として不慮の死など迎えさせてなるものかと。私は彼がどんな力を持っていたのか、何故神殿を良く思わないのか、あらゆることを知らなかった。しかしその物言いはいかなる理由があろうと、幼く愚かであることは明確だ。歳嵩ぶって語ろうと、やはり人間というものはいとけきいきものなのだと奇妙に感心した。けれど私は同時にこうも思った。短い生ならば、諦める間もなく死を迎えることもあるのだろう、と。
私に神殿の僧侶たちが語る罪があるとすればいかなるものか、私は未だ掴みかねている。しかし私がそれを断じるならば、私の罪とは、無知だ。私に知らされなかった掟とはいえ、私が知ろうとすれば、我々の棲みかには我々以外の生物が存在しなかったこと、多くの同族たちが洞窟を離れることを禁じられていたことに気がついたことだろう。それは、知らされなかったことではない。私自身が、気付こうとしなかったのだ。
彼との出会いが鮮やかな朱であれば、別れもやはりそうだった。紺碧の三叉を生やした男は二度と喧しく騒ぎ立てることはなく、我々よりなお静かに、古き衣装の如く土に還った。
「賢人の欠片ともあろうものが!」
御輿に乗った顔役が洞窟全てに響き渡るような大声で私を恫喝し、私は「資格」が失われたことを知った。
「エルヴンの智を継ぐのは曇り無き珪石でなければならぬ」
顔役を見たのはそれが最後だった。私は高位の者たちに顔を見せること、外に出ること、何よりも智を継ぐ珪石になること、全てを禁じられ、ねぐらの場所を移さねばならなかった。
資格が失われたかわりに、私には時間が与えられた。
私が彼を癒したのが洞窟の外であったなら、掟に触れることなく彼は生きて世界を癒しただろうか。無謀な望みを諦めるほどに生きたろうか。癒された人間は、彼のように破顔しただろうか。それは彼の短き生を費やすに値するものなのか。問いの何倍もの長さで返る答えはもう亡く、私は既に賢人の資格を失っていた。無為な思考を、しかし私は止めることはなかった。無為な時間しか、残されたものは無かった。
彼がしたがっていたこと―――私を外に連れ出すこと、を思い出したのは、商人が大挙し兵士が駆り出されている、と知ったときだった。かつて賢人であった私は、商人たちの入るのではない、我々エルヴンにしか使うことのできない出入り口があることを知っていた。私は然程迷わなかった。彼の残した、神を意象したという細工を手に取り、私は蒼き湖へと足を踏み入れた。硬く光を撥ね返していた魔晶石の塊は、賢人の欠片であった私の魔力に呼応して柔らかな波紋をつくった。静かな水音と共に私は洞窟の外、湖の傍に出た。幾百年振りの外気は温く、下草は柔らかい。私は外が春を迎えていることを知った。岩に絡みつく蔦には硫黄色の花が幾つも咲き、森の外に向かう道は苔よりも薄い緑が重なっていた。
空を仰ぐと、「日暮れの橙」が木の枝と若芽の間から覗いていた。黄玉を更に濃くしたような深みが、日が遠のくにつれて朱へ、そして蒼へと変わる。
春は男の語る、最も色彩溢れる季節だった。
私はその時まで春を知らなかったのだと、知った。
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あとがき
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