ノワールは焦っていた。誤魔化しようがないくらい、焦り、戸惑い、逡巡していた。どうしてこうなった。
遠視鏡を覗くのを止めて、思考に沈む。彼が夢中になり、そして今現在も心のド真ん中を占め続けている相手。ファウスト・ノーラは、果たしてこんなにも弱かっただろうか?
事は数日前に遡る。事実上彼のものとなったファウスト・ノーラがノワールとの関係へ否定的な言葉を口にした時、ノワールは、しめた、と膝を打った。というのも、ファウストはノワールと肉体的な関係を持ちながら、いつまでたっても心を許すことが無かったからだ。根っからの狩人を自称するノワールは、彼の心を欲していた。だから、互いに距離を置く、という勝負を持ちかけた。彼の心をゆらがした後に、心の底まで浚ってしまおうと思っていたの、だが。
遠視鏡から見たファウストは、只でさえ悪い顔色を土気色というべき程までに悪化させ、カリカリとした苛立ちを隠すことさえしない衰弱振りを見せていた。ノワールの立てていた予想とは大きく違う。ファウスト、彼を手に入れる前に観察したころは、こうではなかった。ノーラのような勝手な人間に揺らがされることはなく、ただ彼はいつも前を見ていた。目標を忘れることなどなかった。
ノワールは飲み下せないすじ肉を頬張ったときのような顔になった。なんだろう、これは。頭に靄がかかったような感覚。狩りのときはいつも、最善手といかないまでも次の手が直ぐに浮かんでくるものだ。
しかし、今度はそうではなかった。相手が人間だからか?ノワールは自分に問いかける。違う、そうではない。ファウストを手に入れるまで、俺はこんなふうに悩んだことなどなかった。
「俺は、弱くなっているのか?」
ノワールは思い至った結論に総毛立った。なんということだ。俺は弱くなっている。自覚すればますますそれが真実のように思えてきた。
そもそも、ファウストが「こう」なることを予想していなかったはずなのに、経過を観察する理由などなかったのに、何故ノワールの鷹の目は目ざとくファウストを見つけ、そうでないときには道具を持ち出してまで彼を眺めようとしているのか。ノワールは、耐えられない。ファウストの傍にいないことがこんなにも「こたえる」ことだったなんて、勝負以前には思ってもみなかった。ファウストの声が聞きたかった。冷たい指を握って感触を確かめたい。下らないことを話したい。理解できない世界を覗くときだけ、きらきらと輝く目を見たい。
男相手の性欲だけではない、知り得なかった欲が自分に生まれていることを、彼は認めないわけにはいかなかった。
狩っていた、つもりだった。
ノワールは苦笑した。まだ、俺は修行が足りない。己が何を狩っていたのかすら、俺はたった今知ったのだ。
毛皮も、角も、骨も、まるで使えぬ人間を狩る理由。それがファウストでなければならなかった理由。肉欲を満たすためならば女を買えばよかった。何故ファウストだった?何故俺はいきなり、人に対して狩りをおこなおうとしたのか。
無論、充たされるためだ。―――体ではなく、心を充たす相手として、あれを望んだ。
思えば、ファウストに対して彼が「狩り」と称した根拠は他でもなく飢餓だった。欲しい、と、わけも無くそう思った彼は、それを狩りだと称していた。
けれども。
他のどの獲物でも満たせぬ欲を、それでしか満たせぬ欲を、たった一つのもので満たそうとするのは、それは、中毒だ。
言い換えるならば。それは恋だった。
ノワールは見えなくなった影を追うように歩みを進めた。勝負は、俺の負けで良い。ただ会って話がしたかった。ファウストも、俺も、お互いに弱っているのなら、それはもしかしたらお互い恋をしているのではないか、と確かめたくなった。
あいつは気付いていないだろう。頭が良い癖に、俺にわかるようなことは全部わからない馬鹿だから。自然にノワールは笑みを浮かべ、それが久方ぶりの笑顔であることを自覚した。
慎重に唇をぬらす。予行演習を頭の中で何度も繰り返す。
ファウストの部屋の扉が近づいていた。慣れた気配をその向こうに感じる。
彼がファウストを呼ぶ声は、彼には珍しく堅く張りつめていて、ともすれば別人ではないかと思うほどの緊張をみせていた。なぜなら彼は、そのとき初めて、彼をそう呼んだからだ。
「開けてくれ、…ファウスト、話がしたい」
狩人と獲物ではなく、恋人になりたいんだ。
遠視鏡を覗くのを止めて、思考に沈む。彼が夢中になり、そして今現在も心のド真ん中を占め続けている相手。ファウスト・ノーラは、果たしてこんなにも弱かっただろうか?
事は数日前に遡る。事実上彼のものとなったファウスト・ノーラがノワールとの関係へ否定的な言葉を口にした時、ノワールは、しめた、と膝を打った。というのも、ファウストはノワールと肉体的な関係を持ちながら、いつまでたっても心を許すことが無かったからだ。根っからの狩人を自称するノワールは、彼の心を欲していた。だから、互いに距離を置く、という勝負を持ちかけた。彼の心をゆらがした後に、心の底まで浚ってしまおうと思っていたの、だが。
遠視鏡から見たファウストは、只でさえ悪い顔色を土気色というべき程までに悪化させ、カリカリとした苛立ちを隠すことさえしない衰弱振りを見せていた。ノワールの立てていた予想とは大きく違う。ファウスト、彼を手に入れる前に観察したころは、こうではなかった。ノーラのような勝手な人間に揺らがされることはなく、ただ彼はいつも前を見ていた。目標を忘れることなどなかった。
ノワールは飲み下せないすじ肉を頬張ったときのような顔になった。なんだろう、これは。頭に靄がかかったような感覚。狩りのときはいつも、最善手といかないまでも次の手が直ぐに浮かんでくるものだ。
しかし、今度はそうではなかった。相手が人間だからか?ノワールは自分に問いかける。違う、そうではない。ファウストを手に入れるまで、俺はこんなふうに悩んだことなどなかった。
「俺は、弱くなっているのか?」
ノワールは思い至った結論に総毛立った。なんということだ。俺は弱くなっている。自覚すればますますそれが真実のように思えてきた。
そもそも、ファウストが「こう」なることを予想していなかったはずなのに、経過を観察する理由などなかったのに、何故ノワールの鷹の目は目ざとくファウストを見つけ、そうでないときには道具を持ち出してまで彼を眺めようとしているのか。ノワールは、耐えられない。ファウストの傍にいないことがこんなにも「こたえる」ことだったなんて、勝負以前には思ってもみなかった。ファウストの声が聞きたかった。冷たい指を握って感触を確かめたい。下らないことを話したい。理解できない世界を覗くときだけ、きらきらと輝く目を見たい。
男相手の性欲だけではない、知り得なかった欲が自分に生まれていることを、彼は認めないわけにはいかなかった。
狩っていた、つもりだった。
ノワールは苦笑した。まだ、俺は修行が足りない。己が何を狩っていたのかすら、俺はたった今知ったのだ。
毛皮も、角も、骨も、まるで使えぬ人間を狩る理由。それがファウストでなければならなかった理由。肉欲を満たすためならば女を買えばよかった。何故ファウストだった?何故俺はいきなり、人に対して狩りをおこなおうとしたのか。
無論、充たされるためだ。―――体ではなく、心を充たす相手として、あれを望んだ。
思えば、ファウストに対して彼が「狩り」と称した根拠は他でもなく飢餓だった。欲しい、と、わけも無くそう思った彼は、それを狩りだと称していた。
けれども。
他のどの獲物でも満たせぬ欲を、それでしか満たせぬ欲を、たった一つのもので満たそうとするのは、それは、中毒だ。
言い換えるならば。それは恋だった。
ノワールは見えなくなった影を追うように歩みを進めた。勝負は、俺の負けで良い。ただ会って話がしたかった。ファウストも、俺も、お互いに弱っているのなら、それはもしかしたらお互い恋をしているのではないか、と確かめたくなった。
あいつは気付いていないだろう。頭が良い癖に、俺にわかるようなことは全部わからない馬鹿だから。自然にノワールは笑みを浮かべ、それが久方ぶりの笑顔であることを自覚した。
慎重に唇をぬらす。予行演習を頭の中で何度も繰り返す。
ファウストの部屋の扉が近づいていた。慣れた気配をその向こうに感じる。
彼がファウストを呼ぶ声は、彼には珍しく堅く張りつめていて、ともすれば別人ではないかと思うほどの緊張をみせていた。なぜなら彼は、そのとき初めて、彼をそう呼んだからだ。
「開けてくれ、…ファウスト、話がしたい」
狩人と獲物ではなく、恋人になりたいんだ。
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