笑顔に答える術が無いと気付いたとき、口をついて出たのは皮肉であった。
けれども、皮肉にさえ祝福を与える声を聞いて、
彼は初めて善性を知った。



とるに足らないもの、捨て置かれるもの、足りないもの。
「俺のことなんて放っておけ」そんな意志をあからさまにすることも気だるいときに名乗る、スラムの民の共有名ともいえる最も平凡なそれに、
「西の響きで言うならば、ジャック、が一番近いのでしょうか」
と感心したように受け入れた男がかつて一人だけいた。
西から宗教という文化を背負ってやってきた男だった。

彼は自分がジャックと呼んだ少年に名前というものが存在していなかったことも、彼の瞳の色がその地では異貌であったことも知らぬままに、少年の名を呼んだ。
決してそれは、男が全き善性をもって口にした言葉ではない―――ということも、今のジャックは知っている。異国の地に赴任して間もない男が、故郷を思わせる風貌の少年に何らかの感傷を覚えるのはとても自然な話だし、健康な人間の精神であればその街に恐怖や嫌悪を感じこそすれ、布教を目的にその界隈を歩くことさえ躊躇するのも不可解なことではなかった。若き教徒は街の案内人を求めていたし、逆に彼こそは「子供」であるジャックに善性を信じたことだろう。

それが不完全な、祝福以外の意味を含んだものであったとしても。やはりその日は少年にとって洗礼を受けた日に違いなかった。
そして、その日を境に年を数えるような習慣を身につけることになったのも、少年にとっては自然なことであったのだ。




(だけど結局はこのザマだ)

枯れ木の方がまだ生気を湛えている。そんな風に彼が自己評価を下した腕は、力なくシーツの上に横たわっていた―――その持ち主と同じように。
あの日ジャックとなった少年よりは世の中のためになったであろう男も、その男についてゆくと誓った娼婦も、今はもう亡い。腹を減らしていた子供に分けたクラッカーの幾つかを正しく自らの腹に収めていれば、もう少しは長く在ったのかもしれない、が。
彼らの憐みは何を為すこともなく、こうして尽きかけている。
とるに足らないもののまま。

祝福は形を変えて呪いに変わると悟ったのは、血を吐いて間もない頃だったろうか。誇りを持って書き入れていた申請用紙の端々に、余計な力が籠るようになったのは、未だ式を活用していなかった頃のことだったろうか。

彼の持つ視界のように、過去は遠く霞む。
記念日ですからね、と甘ったるいジャムを乗せたクラッカーをこっそり渡した男の顔は、どんなだったろう。
たびたび間違えながらもなんとか一曲を弾き終えて、振り向いた女の顔はどんなだったろう。
思いだすことすら罪の一端であるような気さえして、ジャックは痛みにでも苦しさにでもなく顔を顰めた。彼にとって過去は未だ、飲み下せないまま喉の奥に引っかかっている小骨のようなものだ。

嫌な日だこと。
皮肉を織るのも億劫で、安易な溜息が洩れそうになったころ。



覚えのあるものよりも幾分か自然な音が、ジャックの耳に届いた。


「………うっわー」

溜息の代わり、地を這うような呻き声が漏れた。
確実に。
間違いなく。
緑の悪魔が、下にいる。

「……………やだもう勘弁して…」

他に誰が居ようか。世間的にもジャックの主観でも呪わしいこの日に、わざわざ、この寂れた教会で、この曲を弾くような考えなしのお節介が!
あの、こと自分以外の全ての存在に関してだけは無駄に自信過剰な、あの女以外に誰が!
このクソ面倒に絡まり合った呪いと祝福とを一切合切構わずスルーして事実のみに着目するような真似をするというのか。呪いを丁寧に抜き取って愛でる自分にとっては目障り耳障り極まりない鬱陶しいことこの上ないあの、なんかちっさいのが奏でている曲。

その音色によって静かに指摘されているような気分になって、泣くでも笑うでもなく、ただジャックはサイドチェストの上の水差しを睨んだ。


―――その過去は呪いではない。






枯れ木のような手は、教導師じみたお節介を振りはらう力もなく、だらりとシーツに横たわっている。
やがてありふれた曲が終わるころ、ジャック・グレイスはその手をゆるゆると持ちあげて、水差しを掴んだ。


ぬるんだ水は咽頭を刺激することなく、曇ったグラスからジャックの胃へと静かに流れ込んだ。




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薬になるといいですね。
先生の優しさに中の人が感涙状態なのにジャックの素直じゃなさがマックスすぎてつらい。本当にありがとうございますゥワアアア

ウァアアアア・w・三・w・ァアアアア
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