彼は家庭というものをいまいち理解していない。あたたかな家庭というものは、常に彼の外側にあるべきだと考えていた。決して彼の人生が孤独であったわけでも、彼がなにか家族に含むところがあったわけでもない。ただ。彼の内には獣がいて、いずれ彼の外側に現れ出るものだと、彼は幼少の頃より悟っていたーーーのか、あるいは、単に、生まれつき性格が悪かった。それ故に彼が家庭を思い浮かべるとき、それはいつも硝子越しの景色のように曖昧に曇って見えるのだ。湿った獣の息が硝子窓を覆うと、それ以上はいけないと視界は奪われる。そんな風だった。だからこそ彼は誰もが望むようなあたたかな家庭に馴染めずに自らそこを出て、そしていらん苦労を背負う羽目になったのだが、まあ、それは別にいいとして。
とにかく、彼は家庭というものをいまいち理解できない、けれどとても素晴らしいものだという認識をしている。
「プロポーズ、ですかあ」
たかが学生のお遊びアンケート、ということはわかっているのだけれど、茶色い獣に身をやつした(それが素晴らしいと褒め称える人間もいるので、世の中はひろい)彼はもちもちと思い悩んだ。誰かと家族を作ることはきっと彼にとってとても難しい。種族についてはおそらくどうとでもなるけれど、彼の心は、異形のままだ。
むにゅう、アンケート用紙の上に広がり短い足をばたつかせると、通りすがりの女生徒がきゃあきゃあと声をあげた。かわいかろう。もっとよってもいいのよ。ポージングを頑張ったところ、数人の女生徒が短い毛を代わる代わる撫でて飴を置いていった。うむ。清純派パンツもよいものである。
「むぬぬ」
もらった飴をさっそく食みながら思いを馳せる。果たして彼に足りないものはなにか?彼が家庭を築くことができるまでに、何が必要なのか?
それは少なくともカロリーではなく、また金銭でもない。かつて家庭から逃げたころ、彼は成長するためのカロリーを充分に与えられていたし、財力は実のところ、趣味の研究をやめてしまえばそれほど困窮しているわけでもなかった。
無駄に誠実に(つまりその誠実さこそが彼が家庭へ抱く感情であるのだ、意外なことに)思い悩んだ末、彼はふと、先日のデートを思い出した。ここに至ってようやく性的関係にある女性に思いを馳せるあたりが非常に不誠実極まりない事態ではあるが、まあ、良いことにしよう。相手も同じようなものなのだ。おあいこさまである。
体を繋ぐことは息をするように簡単な彼らであったが、驚いたことに、手を繋ぐのは非常に難しいということがわかったのだ。いや物理的な意味ではない。さすがに人の姿でデートした。恥ずかしかったのだ、単に。
まともに生きてこなかった人間二人が、まともな人間みたいな振りをして、まるでまっとうな恋人みたいに手を繋ぐのが恥ずかしくて、照れ臭くて、なんとなく、すげえ嬉しかったのである。やりちんのわりに、コーラル・ウィステリアは単純な男なのである。なにせいぬなので、イヌ科なので。

そう、まっとうな生き方は、いざやってみるとやたら照れ臭くて恥ずかしくて、そんでもってなんだか嬉しいのであった。

とすれば。
まず我々が結婚とかいう事態に陥るとして、必要なのは、きっとたぶん金銭とかカロリーとか気持ちとかその辺ではなくて、単純に、
「勇気……では?」
口の中で溶けた薄い飴玉が、ぱりんと割れた。


『3ヶ月くらい少しずつ、一緒に踏み出せるひとと結婚したいです』

無記名アンケートに肉球跡のついた一枚が投稿されたのは、彼が中庭で悩んでややしばらくのことだった。
真面目さがむしろあざといと様々なひとに伸ばされもちられ、彼はたいそうご機嫌だったそうな。どっとはらい。
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