その女が俺にいっそ尊敬すらさせるところといえば、現状を変える努力を全くしていないくせに現状の変化を望む傲慢さだった。本人の弁によれば「頑張っている」というそれも、俺からすれば偶然お優しい誰かの目にとまることを期待して澄んだ湖面に糸を垂らす、酷く効率の悪い漁にしか見えない。あるいは、巣立った鳥がなお親の庇護を求めて口を開ける様か。実際のところ、その女はここに来る以前だって大事に大事に育てられてきたのだろう。それ故に、世界の流儀をまるでわかっちゃいないのだ。
 人間というのは単純なもので、善意には善意を、悪意には悪意を返すようにできている。であるならば、欲しがり屋の奴は善意をありったけ振りまけばいいのだ。まあ、下心あっての行動には、八割利己心混じりの善意程度しか返ってこないだろうがね。それでもまあ、残り二割くらいならそこそこ扱いやすい友情とやらも手に入るだろう。
 それをその女は、傷を恐れて手を出しもしない。
 いや全く、大した自信家だ。
 それとも何かね。混じりものの善意の対価に、純粋な善意で返されるのが怖いのかね。ありそうな話じゃないか。うけとった罪悪感でミンチになるところは、さぞ見ものだろう。

 今日も今日とて女は愚鈍にさ迷い歩く。だれか自分の「ちいさな」望みを叶えてくれる都合のいいオトモダチはいないかと、目を小皿程度に大きくして。




 「今日はお友達できるといいねェ。モブ子ちゃん」

 恋人たちが囁き合うようなあまーい声で、体をまげて低い位置にある耳に息を吹きかけてやる。俺としては親愛の情をこめたつもりだったのだが、怒りにか、羞恥にか、真っ赤になった顔は邪鬼くらいなら追い払えそうな般若顔。おおこわ。

 「邪魔しないでください、ジャック先輩!」
 「俺がいてもいなくても、結果は変わらないと思うけどねェ」

 ふと俺は、ジャック、となれなれしく呼ばれることが不快なのだと告げてやったら、こいつはどんな風に顔をゆがめるのだろうと思った。実際のところ、それは半分真実で、だからこそ俺はめったに他人の名前を口にしない。自分が嫌だと思うことは他人にしないって、誰だって習ったことある世界の流儀の一つじゃない?ああ、これもこいつが知らない流儀の一つってやつかもな。
 名無し。じめじめとした石畳の路地裏に転がる死体か、それ以下の意味しか持たない男。俺の育ったところじゃあ、最も平凡なその名前はそんな意味を持ったスラングだった。スラムの慣習を知らず、俺の名前をそれだと認識して西洋風に「ジャック」と呼んだ馬鹿がいたころは、それでもかまわないような気がしていた。
 そして。どんな聖者相手だろうと、意図せずして最上級の罵倒を口に上らせるこの名前は、今の俺には使い勝手のいい道具の一つだ。

 ぎゃあぎゃあと鳴き喚く畜生共の牧場が良く見える渡り廊下。
 薄く影のかかる場所を好んで歩く、お前だって名無しと変わりはしない。

 「まァだ期待なんてしてるのかよ、いいかげん認めちまいな、お前に認められるべき価値なんてこれっぽっちもありはしないのさ」

 責めるような瞳がこの上なく心地いい。あーァ、そんなにスカート皺くちゃにしちゃって。いくらお前の体で寝押しするのが簡単でも、今日の授業はまだ半分も残ってるのに。どうせ1人で受けるんだから、後からひとりで空しい気持ちになる要素なんて、作らないように努力しとけばいいのにねェ。

 早く気付けよクソ女、俺の名を呼び続ける限り、お前は俺と同じ穴の狢だよ。

 とうとう涙をうかべてむっつりと黙りこんだ女は、踵を返して駆けだした。いつもと同じ幕引きだ。逃げ続けてもどうにもならないってのは、現実相手で悟れっつうのなァ。
 小さくなる背にひらひらと手を振った俺は、全く逆へと進むことにした。薄暗いものを抱えたやつは、薄暗いところを探すのが一番だ。害虫がそうするみたいに、奴らは隠れて光をやり過ごす。
 あいつひとりが生者の振りした屍ってわけじゃない、そういうことだ。ゾンビ退治のお仕事は、昼間も夜も休み無し。
 全く俺は、人類きっての聖人君子だ。どうにも誰もが否定するけど、俺の全てを知ったなら泣いて崇めて奉ってもいいくらいだと、俺は思うね。







(こちとら骨になるまで働いてるのに、怠け者ってのは難儀なもんだ)






※参考:一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書
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