※微妙に鬱です



 世界に溶けて行った少女の笑い声が聞こえる。
 誰にも遠慮はしなくていいのだというように、晴れやかに。


 「…ニクス?」

 配膳の手が止まったのを訝しむ主に名を呼ばれ、私は自分が何をしていたのかをようやく思いだすこととなった。そう、私は、主の従者だった。今も昔も。主のために生きることが私の使命であり、それをいかに完璧にこなすかが私の目標だった。今も昔も。

 「珍しいな」
 「…申し訳ありません、マスター」
 「いや、いい」

 言葉少なに赦すまでの儀式を終えた私たちは、主の食事が終わるまで無言だった。いつもの通り。…いや、語弊がある。それは最近になってからの習慣だった。私の口数は昔に比べて少なくなっていた。増えた思考と、反比例するかのように。
 主が感づいていないはずはなかった。しかし、私がそれを口にすることはない。…意味が、ないからだ。

 世界に溶けて行った少女を覚えている人間は、どこにもいない。

 主に仕えるという使命をおざなりにしているという自覚はあった。それが私の自尊心を激しく傷つける。けれど、それをどう癒したらいいのかわからない。いや…わかってはいる。思考を趣味とする主に仕え、その議論に長年付き合わされた身であるからには、自分の心情がどのようなものかなど、深く思考するまでもなくわかっている。
 傷ついているのは自尊心ではない。
 私が癒したいのは、私のプライドではない。

 白いプリムラのような少女だった。
 薄く雪の積もった丘に揺れるプリムラがとても綺麗なのだと、見せてやりたい、と言ってやったら。
 あの少女はどんな顔をしたのだろう?どんな風に笑ったろうか。

 丘に帰った私を想像する。
 冬が来るたびに、私はプリムラを見て少女を思いだすのだろうか。こんな風に、すべきことを忘れて、誇りを失った獣に成り下がるのだろうか。到底耐えられそうもなかった。主の無い世界で、拠るべきものもなく、私は丘に留まり続けるのか。
 そろそろ認めなくてはならなかった。
 私は、もはや誇り高き幻獣などでは無くなっていることを。


 「…マスター。一つ、お願いがあります」
 「うん、なんだ。なるべく聞いてやる」
 「…マスターの至る世界に。私も、お供してよろしいでしょうか」

 主の目が丸くなった。けれど、彼はやはり私が何かおかしくなっていることに気付いていたのだろう。逡巡する間もなく、「構わない」と頷いた。






 全知の広がる世界なら。
 全ての人間が忘れてしまった、彼女の名前を知れるだろうか。
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