本当は少し気分が良かったから、突き放すことはしなかった。
わたしのずるいところ、きっとあいつは知ってた。だから、お互い様だ。


「僕と契約して、僕の影武者になってよ!」
「うるっさいわね放蕩王子。いいから黙って手動かしな」
「それには異存ないけどねえ」

 首を振ってため息をつく仕草、は、ちょっとはその育ちに納得してやってもいいかなー、と思わせるだけの優雅さがあった。でもフラットは村の人間と混じっててもわからないくらいの普通顔で、しかも売り物を店に並べながらの会話だったものだから、なんだか妙にちぐはぐで、私は不機嫌な表情を崩して笑わずにはいられなかった。なんで笑うかな、と言うフラットの顔だって笑ってる。朝のやわらかい日差しに照らされた金髪はたんぽぽみたいで、やっぱりこいつは王族とかには向いてないのかもしれない、と同情した。
 でも、だからといって、影武者になって傍に居続けるなんてことはごめんだ。
 私はパン屋の娘だし、これからもそうあり続けたいと思っている。…まあ、少しは都の暮らしにも憧れてるけど、お世辞混じりに看板娘って呼ばれてるくらいが私には丁度いいのだ。器量が特別良いわけでもなければ、学があるわけでもない。都に行ったって、それこそこいつの言うような暗い職に手をつけなければ、とてもやっていける自信はなかった。

「…アーニャ?」

 フラットの声で我に返る。いけない、そろそろ開店の時間だ。カウンターに戻ってきた父が私の仕事ぶりを見たら、またああだこうだと言われてしまう―――「フラット様が跡取りなら安泰なんだがなあ」なんて色んな意味で頭おかしい言葉、そろそろ耳にたこができそうだ。
 慌ててロールパンを並べる間、フラットは空になったバスケットを抱えて黙っていた。
 そういう気遣いができるなら、そろそろ分かってくれてもいいのに。「終わった、ありがとフラット」顔を見ないように努めながら、私は作業場へ向かった。

勇気が無い。
それが問題だってこと、フラットもわたしも良く知ってた。
だからフラットはそのときのわたしを見逃したりしなかった。



「…ねえ、アーニャ」

 収穫祭の日の篝火のように、フラットの住んでいた屋敷からはオレンジ色の炎が燃え盛っていた。…ああ、早く火を弱めなくちゃ…あれじゃ火が強すぎる…どんなに良い水と小麦をつかっても、これじゃあ台無しだ…ほら、焦げた臭いが、

「…僕はずるいことを言ってる。でもこれで最後だ。…数年で良い、僕の影武者になって欲しい…それで解決する問題が、まだ幾つも残ってる」

 柔らかい声はもうどこにも無くて、フラットは掠れ切った声で、それでも一生懸命に話しかけてきた。いつも通りの、けど、いつもとは違う事情をはらんだ言葉。わたしが彼の影になったって、もうフラットの傍に居続けることはできない。本当の姿を無くした影は、偽物のまま一人で生きていかなくてはならない。
 もうすっかり力の入らなくなった私の両足は、フラットの作った水たまりに浸りきっていた。そう遠くなく、フラットの体もこうして冷たくなるのかもしれない。

「…僕と契約してよ、アーニャ」

 いいよ。
 私は初めて頷いた。涙は枯れ切って、喉が乾いていて。声に出す代わりに、私はフラットにも分かるように彼の手を堅く握った。薄い緑の目はもうずっと閉じられたままだ。彼は目を開く力よりも、私に伝える言葉をとった。怖いな、と、今さらのように思う。私は今から、そんな世界に行こうとしているんだ。

「……ミルクパン、焼いて待ってる」

 フラットはそう言って、静かになった。


 こんなはずじゃなかったんだけどなあ。
 山を抜ける間、私はずっとそんな風に考えていた。

 せっかくなら、フラットに付けて欲しかったのに。


 私の魔力を吸って幻に変換する指輪。
 見慣れた緑に似た石が、月明かりを受けてきらきら光った。
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