纏わりつくような水の気配に私はすっかり弱っていた。伸ばした髪はべたついて絡まり通し、ローブが重量を増して肩が鈍く痛みを訴える。気を入れ替えて研究に取り掛かろうとすれば、身の内の魔の焔はすっかりと湿気て火の粉を寄越す気配すら見せず、気晴らしに本を開こうと思えば、背から後頭部にかけてを真綿で締め付けるような拘束感と、酷い頭痛が襲う。このまま無理を通せば圧迫感と共に吐き気が襲うことは、これまでの経験から容易に想像がついた。
雨は嫌いだ。曇天と共に不機嫌が降る。私は自分の行動を不慮の事態に制限されることについて、常人よりも強く不快感を覚える質だった。目覚めてからこちら半日分の苛立ちが、細い息となって口から洩れ出した。
ベッドから見える景色は目覚めたときと何も変わらず、陰鬱な灰を水滴越しに映している。時間帯など分かったものではない。ただ重みを増す痛みが、積もる時間を忠実に伝えるだけ。身を起こすには空気が質量を増し過ぎていた。首だけを動かして、無遠慮な悪友の姿を意味も無く眺める。身じろぎした私に気がついたのか、一抱えもある厚い本のページを捲くっていた手が止まり、闇色の瞳がこちらを向いた。
「参ってるみたいだな」
愉快そうな色を載せたファウストの声には共感すべきところが一つも見つからず、私は眉根を寄せることを返答として黙りこんだ。熱を熾すことを得意とした私の性質とは違い、彼の魔力は熱を奪うことに長けていた。その性質ゆえか、彼は炎よりも水との相性がいい。不健康そうな生活を送っているわりには、彼は私のような不調に苦しむ様子は無かった。忌々しいことに、この男は死霊を操る才だけではなく魔力さえも私の上を行き、その助けを得て生きているのだ。食事や睡眠に気を使って暮らしている私が馬鹿みたいだ。そうやって苛立つことそのものも不愉快だった。私は友人に嫉妬していて、その上、元気そうな様子を恨んですらいる。
人間、追い詰められたときにこそ本当の人間性が浮かび上がるというが、ならば私は所詮この程度の人格しか持ち合わせていないのだ、という想いは、ますます首の圧迫感を強めた。
「分かっているなら、そろそろ帰ってくれ」
とうとう口から洩れた悲鳴はそんな風だった。私はファウストを傷つけまいとすることよりも、自分が傷つかない道を選んだのだ。なにかを考えるたび、部屋中の湿気が睫毛に露となって落ちるのではないかということを私は恐れた。弱い人間であることは自分でもよく分かっているし、意地を張る必要はない。けれど、私はこの男の前ではせめて虚勢をはっていたかった。
ファウストは私の息に良く似た、しかし陰鬱な気配のない長い息をつき、「分かった」とひとこと、本を閉じた。「あんま無理するんじゃねえぞ」
彼のその言葉はおそらく、私が体調を崩していること、その弱音を吐かないことに起因していた。私の態度に気分を害するどころか、こちらを気遣ってみせる。ファウスト・ノーラとはそんな男だ。
とうとう限界だった。いつの間にか燻っていた視神経の更に奥からの熱が、外気に触れさせろと暴れ出し、抵抗が無いのを知るや否や熱を持った涙となって頬を濡らした。ファウストに声をかけてより天井を見つめていた私の頬を伝い耳へ入ろうとしているのに気が付き、私はようやくそれを拭う。
「なんかあったのか」
心配に満ちた声、寄る足音。何もありはしない。お前と私が別々の人間であること自体は、何も―――
無神経にこちらを覗きこむファウストの影が差す。水の気配が強くなった。私は重い宙をかいて、彼の骨のような腕をローブ越しに掴んだ。
「ネブラ」
「やっぱり、帰るな」
戸惑いの声に被せるようにして制止し、やはり骨の形の良く分かる手を引きまるで触媒をそうするかのごとく、歯で、舌で、味わった。ファウストが息を飲む。驚いたのか、私の意図に乗り始めたかを判断する気はなかった。どちらでも構うまい。私も私の理由を説くつもりはない。なぜなら、
「ファウ、お前とひとつになりたい」
そうすれば互いがどうであるかなど、直ぐにわかるのだから。
---------
あとがき
雨は嫌いだ。曇天と共に不機嫌が降る。私は自分の行動を不慮の事態に制限されることについて、常人よりも強く不快感を覚える質だった。目覚めてからこちら半日分の苛立ちが、細い息となって口から洩れ出した。
ベッドから見える景色は目覚めたときと何も変わらず、陰鬱な灰を水滴越しに映している。時間帯など分かったものではない。ただ重みを増す痛みが、積もる時間を忠実に伝えるだけ。身を起こすには空気が質量を増し過ぎていた。首だけを動かして、無遠慮な悪友の姿を意味も無く眺める。身じろぎした私に気がついたのか、一抱えもある厚い本のページを捲くっていた手が止まり、闇色の瞳がこちらを向いた。
「参ってるみたいだな」
愉快そうな色を載せたファウストの声には共感すべきところが一つも見つからず、私は眉根を寄せることを返答として黙りこんだ。熱を熾すことを得意とした私の性質とは違い、彼の魔力は熱を奪うことに長けていた。その性質ゆえか、彼は炎よりも水との相性がいい。不健康そうな生活を送っているわりには、彼は私のような不調に苦しむ様子は無かった。忌々しいことに、この男は死霊を操る才だけではなく魔力さえも私の上を行き、その助けを得て生きているのだ。食事や睡眠に気を使って暮らしている私が馬鹿みたいだ。そうやって苛立つことそのものも不愉快だった。私は友人に嫉妬していて、その上、元気そうな様子を恨んですらいる。
人間、追い詰められたときにこそ本当の人間性が浮かび上がるというが、ならば私は所詮この程度の人格しか持ち合わせていないのだ、という想いは、ますます首の圧迫感を強めた。
「分かっているなら、そろそろ帰ってくれ」
とうとう口から洩れた悲鳴はそんな風だった。私はファウストを傷つけまいとすることよりも、自分が傷つかない道を選んだのだ。なにかを考えるたび、部屋中の湿気が睫毛に露となって落ちるのではないかということを私は恐れた。弱い人間であることは自分でもよく分かっているし、意地を張る必要はない。けれど、私はこの男の前ではせめて虚勢をはっていたかった。
ファウストは私の息に良く似た、しかし陰鬱な気配のない長い息をつき、「分かった」とひとこと、本を閉じた。「あんま無理するんじゃねえぞ」
彼のその言葉はおそらく、私が体調を崩していること、その弱音を吐かないことに起因していた。私の態度に気分を害するどころか、こちらを気遣ってみせる。ファウスト・ノーラとはそんな男だ。
とうとう限界だった。いつの間にか燻っていた視神経の更に奥からの熱が、外気に触れさせろと暴れ出し、抵抗が無いのを知るや否や熱を持った涙となって頬を濡らした。ファウストに声をかけてより天井を見つめていた私の頬を伝い耳へ入ろうとしているのに気が付き、私はようやくそれを拭う。
「なんかあったのか」
心配に満ちた声、寄る足音。何もありはしない。お前と私が別々の人間であること自体は、何も―――
無神経にこちらを覗きこむファウストの影が差す。水の気配が強くなった。私は重い宙をかいて、彼の骨のような腕をローブ越しに掴んだ。
「ネブラ」
「やっぱり、帰るな」
戸惑いの声に被せるようにして制止し、やはり骨の形の良く分かる手を引きまるで触媒をそうするかのごとく、歯で、舌で、味わった。ファウストが息を飲む。驚いたのか、私の意図に乗り始めたかを判断する気はなかった。どちらでも構うまい。私も私の理由を説くつもりはない。なぜなら、
「ファウ、お前とひとつになりたい」
そうすれば互いがどうであるかなど、直ぐにわかるのだから。
---------
あとがき
スポンサードリンク