彼は記憶を食う魔物であったから、言ってみればただ生きているだけでも資料は充分にその体内に蓄積されつづけていた。
「でも、それってズルじゃないですか?」
と、妖しの編集者は人に変化した艶やかな唇を尖らせて言った。面白くないです、編集の醍醐味って作家の苦悩を間近で見てほくそ笑むことなのに―――彼女、あるいは彼の偏った職業観はともかくとして、確かにその記憶を利用して物語をつくることはあまり誉められたものとは言えなかった。誰にも知られずに生きたと、当人が信じた記憶である。それを取り上げて使うことは、さしもの魔物とて許されようはずもない。
編集者には知らされていないことではあるが(というよりは、彼は知ることを選ばなかったのだろう)、ヒメガキと出版社の間にはそういった契約も交わされていた。よほどの例外、「そういう」ものを主題にした作品でなければ、記憶そのものを利用することは避けるようにと。単なる書面上の契約ではない。魔物が、魔物と言の葉で交わした取引である。それは公的な動きのみならず、魂をも縛る強制力を持つ。
故にヒメガキは真実を書く上で、ほんの少しの嘘を織り交ぜる必要があった。
けれども、初めから、この世のありさまを見るかぎりでは、ズルをするための選択肢など無いも同然だった。
締め切りに般若面で追われ続ける身としては、口惜しいことではあるが。
「残念だがな、」
喉の奥の奥まで深く根をはった息を吐き出して、ヒメガキは東洋風のペン軸をかつんと文机に転がした。
「現実なんざ物書きの餌にしか過ぎねぇ。そのまま書いて送り出すにしちゃあ、この世は乱雑すぎるんだよ」
殺人犯の持つ過去が演劇のような動機に塗れたものであることは少なく、犯人を捜し出すのは探偵の鋭い推理力ではなく大概が憲兵の地道な努力であり、殺された遺体が美しく毒々しく彩られていることよりは間抜けに小便を垂れ流していることが大半であるように。
あるいは、旅に出るときの壮大な目標に反して得られるものは何も無かったと旅先の人間を恨む旅人がいて、風来坊に大切なことを教わるのではなく顔をしかめて銭を投げつけ疾く去れと吐き捨てる令嬢がいるように。
ヒメガキが筆にそういった真実を載せるとすれば、至極丁寧に下ごしらえをして繊細な味付けをしなければ売り物になる訳がないのだ。
真実など、野に乱雑に生えた雑草に過ぎない。
そんなものは、子供のころにまま事ついでに口にして、「もう二度と同じ思いをするものか」と遠のくものである。
あるいは、大切に育てられて雑草の存在にすら気付かずにいるか―――人は誰しも整えられた市場の野菜を好み、文字を覚える前に料理の味を覚えるのだ。
で、あるからして。
真実を食う魔物である彼にとって、言葉を繕い有り様を繕うことは、それがもとは自分の食ってきた雑草の味であることをひた隠しにする行為である。
真実をたくみに組みかえて繊細な嘘の味付けを。
…人は往々にしてそれを、ズルではなく、詐欺という。
「なるほど。それじゃ締め切りに苦悩するのも仕方ないですね」
ふむ。わざとらしく首肯した編集者は変化したヒトの足を悩ましげに組み直しながら、残酷な一言を紅の唇でざっくり吐きだした。
うふふ、と、その笑みは娼婦のように媚びた甘やかさで、
「だからといって一日たりとも伸ばしませんけど」
「鬼かてめェは…!」
がりがりがり、原稿用紙を掻く指先は神経質なまでに力が込められていた。
性欲ゆえのものではない(衝動としてはわりと枯れぎみとかあんまり自覚したくないので、それは冷静さに由来するとヒメガキは自身に主張した)。ただひたすらにそれは、書くことへの苦悩だ。
前述のように。
最低ラインの素材をその味付けで誤魔化してきた料理人の彼にとって、まるでおとぎ話のような真実というものは遠く、いざ手渡されると「はてこれはどう調理すべきか」と思い悩む羽目になる。
故に、いま割と切羽詰まっているのだ。
「…だから言ったのに。純愛ものなんか先生らしくないんですって。こっちとしては話題性があって都合はいいんですがね」
「お前は、少し、黙ってろ」
「はァいはい」
ひねくれ曲がった中年男が、少女との関わりで過去を癒すとかそういう物語じみた真実の調理法を、彼はいままで一度たりとも思考したことがなかったので。
まだですかーとか喚く編集者の声やら遊びに来たんだけどうわお誰だこの人とか騒ぎ立て終いには劣等感でごりごりに凹む女の機嫌取りやら作者と作風を咀嚼できない少年のいつもの八つ当たりやらテロじみた妖怪と妖怪もどきの襲来やらに時間を削られ苛立ち、
あ、これってもしかしてストレスって奴じゃね?
と今まで意識したことの無い感覚にふと思い至り、新作のテーマはこれでいこうと決定したらうまいことハマってなんとか締め切りに間に合ったとかそんな話。どっとはらい。
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あとがき
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