その時の俺は自分が誰なのか、ということを記憶の内から失くしてしまっていた。大事にしまっておくような物でもなし、心当たりのある場所にその記憶がなければ、あとはもうなんとなれ、というやつである。幸い、自分を形成しているものを失くしてしまうことはそれが初めてではなかった。…いつ、そんな経験をしたのかということすら、その時の俺には思い出せなかったのだが。

 日に当たった草の匂いが立ち上る。布越しに乾いた草がちくちくと肌を刺した。

 自失状態は直ぐにそれと判別できたものの、俺は解決法を探すことなく、ただ漫然と野原に座り込み事態の経過を待った。事態。何が起きているわけでもない。ただ、自分がそこにいる、ということが、不変なものではないことが「自失」という結果で理解できている以上、俺はそうして待ち続けることが無意味なものであるとは思わなかった。

 俺はそれが夢であることを知っていた。

 人ではないものの声が聞こえた。緩やかな丘に座っている俺には、眼下の土壁の建物が民家であることが分かっている。とすれば、あの声は家畜なのだろう。山羊とか、羊とか、家鴨とか。犬はいただろうか?―――いた、過去形で考える自分が正しいのなら、これは夢であり過去であるのだろう。
 俺は過去を夢で追っている。
 掌の下でキチキチと虫が鳴く。どんな名前なのか、そういえば誰にも聞いたことがないな、と俺は思った。教えてくれるような親切な大人は、居なかったように思う。…というよりは、皆、さほど学が無かった。良い場所だったけれど、学ぶことが好きな種類の人間には居づらい場所だったのかもしれない。


 「君も、これから大変だろうが」

 隣町から来た兵隊さんが、鼻を啜りながら俺を見下ろした。昔、村を出た子供だったのだと、俺は後に彼から聞いたような気がする。そう、確か、彼もまた死んだのだ。だからあの村を知るものは居なくなった。こうして夢に見るほかは、もう二度と邂逅することのない滅びた村。

 俺は幾度も別れを繰り返している。この滅びた村と俺は何度も、何度も、別れている。
 ついこの間も別れた。強烈な張り手と、「このろくでなし」という言葉を最後に。女に語って聞かせ、おそらく女の中に想起されたであろう村の姿が、俺の前から去ったのだ。俺はそれを笑って見送った。いつものことだった。
 友人とは仲違いすることなく友人のままでいるが、そうだ、彼の中の村を滅ぼしたのもこの間のことだった。在ると信じていた友人に。「そこはもう疾うに無い」と真実を伝えた。理由は、あまり明確には覚えていない。酒に酔っていた。いつものことだった。
 彼はどんな顔をしていただろう。

 太陽が背中から項にかけてを熱している。不快ではない。骨身に染み入る暖かさだ。

 初めて村と別れた時は、別れたという意識もなく、ただ俺の前からなにもかもが消えていることを教えられた。何度も夢を見て、その先に心配した母と父の姿があることを疑ったことさえなかったのに。家族も、家も、村も、家畜の放牧されていた丘も、小麦が揺れる畑も、月に一度開かれる市場も、最近できたばかりの貸本屋も、遠くの国から来たという飴屋の爺さんも、羊一匹うまく負えなくなってすっかりふて腐れている牧羊犬のイーも、もう、どこにもないのだというのだから、笑うしかない。
 笑うしかなかった。
 完全な自失状態だった。
 真っ白なシーツの上で、俺は何も考えることなく、そのまま夢に逃げ込んだ。どこにもない村の夢を見た。独り立ちしてからは見ることが無かったように思うけれども、今も、こうして見ているということは、俺はまた逃げに来ているのだろう。
 ああ、でも。

 「頑張ったな」

 だったろうか。
 友人に半生を話して聞かせたとき、なんだかそんな風なことを言われた気がする。それは妙に覚えているのだ。俺は頑張ったんだろうか?いつもなんとなく生きていたように思うのだけれど。
 ああ、そうだ。
 俺は確かに、言われて、嬉しかった。



 大きな鳥が羽ばたく音がする。男たちが狩りをする森。
(病気はそこから来たと聞かされた。きっとたぶん、真っ先に焼き払われた)

 父さんたちが帰ってきたのだろう、と思って振り返ると、すぐ傍に見知らぬ男が立っていた。足元には男が落とした(のか?妙に整然と並べられていたが、その時の俺は落としたと信じた)らしきアクセサリーやら、ポーチやら、花束やらが散らばっている。
 小さなモチーフのネックレスは、多分女物だろう。暖かな色味。ポーチ…の方は分からない。革製で、少し乱暴に扱っても壊れなさそう。工具を入れるのに丁度良さそうな。

 「ねえ、これ、いらないの?」

 俺はふと思いついて、立ち上がって膝やら尻やらについた草を落としながら男に尋ねた。彼は驚いたように、「おう」だの「ああ」だの、なんだか煮え切らないような返事をもごもごと落とした。
 俺は続けて聞いた。

 「これ、貰っていい?」

 男がいつまでも拾わないというのなら、有効活用してやろうという算段だった。それがどんな意味合いを持つか、理解しようという気はなぜか起きなかった。俺が子供の姿をしていたからなのかもしれない。村を何も考えずに駆け回っていたころの、子供の姿。あまりいろんなことを考える子供ではなかった。両親が明日居なくなる可能性など、思いもよらないことだった程度には。
 男は暫く黙ったあとに、

 「ああ」

 今度は妙にはっきりと頷いた。よっし。子供の俺は拳を握って喜びを控えめに表現した。男は笑う。俺も一緒に笑った。穏やかな取引だ。子供の俺に提供できるものといえば、たった一つしかないけど。
 一つ一つ、男の落としたものを拾って、俺は改めて高い位置にある目を見つめた。

 「ありがと!」

 あとは、家に帰ってこれを二人に渡すだけだ。子供の俺は嬉々として、眼下の家へ向かった。途中にある灰色の低い塀は、手をついて乗り越える。いつもこうして通って、母さんに叱られたものだった。『入口があるでしょうに』そういうものではないということを、どうも女の人というのは理解できないようだった。仕方がない。こっそりやるだけだ。それに今日は、お土産だってある。
 きっと二人は喜ぶだろうとわくわくしながら、俺は玄関へと向かった。
 そうして、

 (ひょっとして俺は、夢の中で村に入るのは、初めてなんじゃないか?)

 ふと、自失した欠片に気づいた。



 じりじりと背中から項にかけて熱する太陽の光に呻いて、俺はとうとう観念して布団から這いずり出ることを決めた。典型的な二日酔いである。頭はひどく重く、胃の奥から唇までが渇ききって熱く、なのに内臓がまるごと外へ出たがっているような緩慢な吐き気。コップに残る酒気を嫌って、水差しから直接水を飲んで、噎せる。
 自失状態に近い、でも、どう頑張っても自分を子供とは錯覚できない、そんな怠惰な休日であった。

 夢の中の俺は、両親に逢えただろうか。
 既に記憶の中の夢は支離滅裂で、ピンクの目薬を飲めと強要される話やら、缶詰を楽器にしようと四苦八苦する亀やらが混じりあって、思い出すことは困難だった。

 それでもなんとか拾い集めた断片を並べ、総合的に結論づけたのは、「俺はもしかしたら頑張ったのかもしれない」という、なんとも自分に甘い評価だ。
 いや、敢えて言おう。俺は今までになく頑張った。
 病後、村が無いことを何となく知りながらも、村と交わることも、村と別れることも、すべて自主的には行わなかったのが意気地なしのクレール・アランだ。既に悲しみは過ぎ去っていたけれども、傷跡を敢えて眺める趣味は無い、そんな風に考えていた。
 思い出を語ることは口の上ばかりでもなんとでもなる。思い出を想うことは、違う。それは過去を認めることだ。過去であると認めることだ。

 (俺は多分、現世の村を過去と認めた)

 村に分け入ってそれを認めることができなかった―――今までは。今日の夢は違っていた。俺は、父と母の思い出に触れた。自ら彼らの思い出に触れるのは、彼らが居なくなってから初めてではなかっただろうか。
 頑張ったじゃん…と、甘めの判定に浸る。なんとなくだらしない笑みが浮かぶ。悲しくはなかった。好きな人たちのことを思い出すのに、なぜ抵抗していたのだろう。
 もったいないことをしていた。恐ろしい事実ばかりが鮮明で、良い思い出ばかりを曖昧にしていた。

 ベッドの端に力なく腰掛けた大人の俺は、日のあたる、木くずの匂いと、大通りの賑やかな音が濃い職人街に住んでいる。テーブルの上には空いた酒瓶と散らかった工具(危ねえ)。自失していた欠片を今日も首尾よく拾い集めて、俺は大きめに伸びをした。固まっていた背骨が、ばき、ばきと鈍い音を立てる。

 「顔、洗うか」

 聞きなれた、酒で掠れた男の声で、俺は今日を始めることにした。
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